01:深海パズル ← モドル | ススム |

● 掌編で15題 --- 2:迷宮図法 ●

 春の光はもう、どうしてやろうかってくらいに麗らかで、どうしようもなく眠気を誘うものだ。『春眠暁を覚えず』なんてよく言ったものだと思う。
 でも、こう眠たきゃ暁を覚えずー、どころじゃなくて朝も昼も夜も関係ねぇよ。
 大学のカフェテラスの一番日当たりのいい席を陣取って、俺はどろりとだれた。頬に当たるテーブルがあたたかくて、余計に眠気の波が寄せてくる。

 今日最初に取っていたはずの講義は教授の出張とかでパーになり、何だかんだで暇人な俺は空いた時間で惰眠をむさぼろうとしているわけだ。
 以上、一人遊びが上手な俺の脳内実況中継でした。お後がよろしいようで。
 溜息をつこうとして、それが欠伸に摩り替わる。半分しか開かない目でカフェテラスの中をぐーるりと見渡してみた。その景色も不意に滲んだ涙でぼやける。
 朝と昼の中間くらいの変な時間で、あんまり人がいない。ところどころにちらほらと見受けられる学生は、俺と同じ講義を取っていた奴らなのだろうか。見知った顔も幾つかある。
 その中の一つに声をかけようとして、また欠伸が零れ出た。しかも、特大。口元を隠す気などはさらさらない。まあいっか、の思考だ。
 欠伸の余韻にあふあふ口元を動かしてると、コツン、と高い靴音が響いた。やたら耳に届くその音で、その主はきっと近くにいるんだろうなぁと推測する。目元をごしごしと擦って視線を少し持ち上げると、何だか微笑ましいとでも言いたげに笑ってるひとが。

 ――あ、やっぱりそうだった。

「おはよう、ヒロキくん」
 眩しささえ感じる笑顔で、その人は俺に声をかけた。
 在籍する学部に咲いている花の中でも一際綺麗な一輪――ミホコさんが。

 馴れ初めなんていうのはおこがましい気がする。でも、あれが確かに一番最初で、言葉にするならやっぱり、馴れ初めのような気もする。
 ミホコさんと俺との接点は、今日出張で講義をパーにした教授だった。
 レポート提出の時期が重なってたのか、教授のところで鉢合わせ。前々から名前だけは知っていたものの、そうして実際に会うのは初めてだった。
 自己紹介がてら教授を交えて三人で話をしたんだが、その時、何故だか映画の話題が飛び出して……俺とミホコさんは意気投合してしまったのだ。あの最新作よりも一番最初のがやっぱり素敵よねぇ、なんていう他愛もないことがきっかけで。
 それからこうして、俺を見かけるたびちょくちょく声をかけてくれる。
 傍に来てくれるときの高い靴音が、最近、少し待ち遠しい。
 けれど、大いに気恥ずかしいのも事実だ。

「おはようございます、ミホコさん」
 寝起きのかすれた声しか出なかった。
 ミホコさんはくすくすと可笑しそうに声を零して、俺の前の席に腰掛ける。持っていたらしい湯気の立つ紙コップをテーブルに置くと、鼻をくすぐる香ばしい匂いがした。
「あ、コーヒー」
「飲む? 目が覚めるわよー」
 すいと滑らせてくれるコップに迷わず手を伸ばす。だれたままでは情けないので、身体を起こし、ありがとうございます、と礼をしてからコーヒーを飲んだ。熱くて、苦くて、一気に意識が冴える。
「あ」
 不意に短く声を上げるミホコさんに、俺は視線だけでどうしたのかと問うた。
「それさっき、私も飲んだのよ」
「……間接キスだって言いたいんですか?」
「そうかも、しれないね」
 そういって、悪戯な顔をするミホコさんは、やっぱり……眩しい。
 そうなりたくはないのに、顔が赤くなる。
「も、もー……からかわないでくださいよ。第一、口紅の跡、付いてないでしょうが」
 ほら、とカップの淵を見せれば、あーあ、と残念そうな顔と声。
「ばれちゃった。……困ってるヒロキくん、面白くて好きなんだけど、なー」
 ふふ、なんて楽しそうに笑われると何だかそれ以上追及する気にもなれない。ミホコさんにつられるように俺も笑ってしまった。

 一頻りだべったところで、不意にミホコさんがパム、と両手を合わせた。
「あ、そうだそうだ。ヒロキくん、あの映画、見た? えーと何だっけ……『into the blue』……だったかな」
「あー、でっかい鯨の映画でしょ? ドキュメンタリーみたいな」
「そうそう、それよー。つい最近DVDになったやつよ」
「俺はまだですねぇ。あの海の撮り方とか、溜息つきたくなるくらい綺麗じゃないですか。見てぇのは山々なんですけど」
「けど?」
「レポートたちが俺を離してくれないんです」
 肩を竦めて、おどける。大して面白くもない台詞にミホコさんはモテモテね、と呟いてころころ笑った。
「で、ミホコさんは見たんですか? 『into the blue』」
「それがね、私もまだなの。だからね、今度一緒に見ない?」
「……は?」
「今度一緒に見ない? 『into the blue』」
 思わず間抜けな声で、ミホコさんの言葉を繰り返した。ぽかぁん、と口が開くのが分かる。
「あ、ごめんなさい。そういえば、レポートが山積みだったのよね……」
 そっと目を伏せ、ミホコさんは腕を組む。どうしようかしら、というポーズ。
「あ、い、いえ、それは俺が馬車馬のように張り切れば朝飯前なので大丈夫です」
「そうなの? 本当に?」
「ええ。……でも、ミホコさん、彼氏が怒りませんか? 俺、喧嘩には自信がないんですけど」
「やーねー、彼氏なんていないわよー。だから誘ってるんじゃない」
 嘘だぁ、と思った。屈託なく言い切るミホコさんの言葉を、思わず脳内で否定していた。
 一週間前だったか。見たんだ、誰かと腕を組んで歩いている姿。背の高い男。育ちのよさそうな優しい顔の、男。
 本当なのか? 嘘なのか?
 いや、こんなの、聞いたってしょうがないんじゃないんだろうか。
 現に、しょうがない、と思ってる。この人なら、しょうがない。
 その辺のちゃちなアイドルも色あせる、眩しいくらいの笑顔を持つ綺麗なひと。話せるだけでも満足で、もしも俺が犬なら振りすぎた尻尾が千切れているくらいだ。でも、痛くはないんだろうな。きっと、千切れたって振り続けるのに必死だろうから。

「……ヒロキくん?」
「はい?」
「どうしたの、黙っちゃって」
「いえ……こーんな美人に彼氏がいないなんて嘘だ、と思って。野郎共が放っておくはずないでしょう」
 あ。
 言ってしまった。
 動揺のせいで思わず口元に手が伸びる。覆い隠しそうになるのを堪えて、顎に手をあてるだけに留めた。思案するポーズに見える、だろうか。そうだといいんだけど。
「そんなの、寄って来てるだけだわ」
 ふ、とミホコさんが目を細めて笑う。
「これでも私、人を見る目はそれなりに確かなのよ」
 薄い唇がつう、と持ち上がって、三日月みたいになる。花のように笑うミホコさん。

「君だってそう。私のお眼鏡にかなった、何人かのうちの一人よ」

 身が入らない講義を何とか切り抜けて、夕方、俺は大学から一番近いレンタルビデオの店に足を運んだ。そろそろ別の棚へと移されるはずの『into the blue』は、まだ店の一番目立つ新作の棚に置かれていた。DVDは幸運なことに、一本だけ、残っている。
 深く、深く、渦巻いて落ちていく海の色。水面で弾ける太陽の光。そして、大きな鯨の尻尾。それらが描かれたケースを手に取った。
 いつ、あのひとと見ようか。
 どうも、今週の土日は別の相手とで埋まっているらしいから……来週の土曜か、日曜。彼女を誘ってみよう。
 こんな自分のどこがミホコさんの目に留まったのか、わからない。でも、描かれていく細い道の中に入るチケットは、確かに手の中にある。
 判然としない競争相手もいるが、まあ、しょうがない。俺は俺で、ベストを尽くすだけ。

 取り敢えず、これから地道に金を貯めて、武器を揃えていこう。
 なんたって、迷宮の主は美しくてしたたかだ。

 掌の上で踊っているさまを愛でてくれるだけでも十分だけど、
 ボスなんて、倒さなきゃ意味が無いだろ。 
01:深海パズル ← モドル | ススム |
Copyright (c) 2006 Ichiri Asakura All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-