掌編で15題
1:深海パズル
パチ。
またひとつ欠片がはまって、歪だった空白がするりとした滑らかさを得る。そうして、完成に、完結に、ゆっくりと近づいていく。
両手両足の指を合計したよりも少なくなった、形も色も微妙に異なった欠片がきらきらと光る。
僕らが費やしてきた時間を慈しむように。
僕らが費やしてきた時間を、惜しむように。
そして、その止め処ないようにも思えた流れの終わりを告げて、きらきらと光る。
形を定めず、気ままに揺らめく光の中で彼女は白い指先をそっと欠片の一つに伸ばした。けれども、ほんの僅かだけ届かなくて、喘ぐようにその人差し指が宙を泳ぐ。
一つをそっと彼女の方に押しやると、静かにそれを摘み上げて、そっと笑った。
ありがとう。と。
遠くから、歌が聞こえる。
聴覚から、皮膚から、何もかもから、じわりと沁みるように僕の身体に届く。
寄せては返し、何度も何度も繰り返される、何処までも遠くとおく響くやさしい歌。
その歌の中で、たゆたう光の中で、彼女はまた一つ、小さな欠片を空白にはめ込んだ。小指の爪ほどの欠片を、僕も手に取る。向こう側を透かす、あぶくの様にすきとおるちいさなそれは、目の前にある空白に吸い込まれるように収まって。ぞくぞくするくらい滑らかになったそこを見て、堪えきれずに溜息が零れた。
もうすぐ、もうすぐ出来上がる。
僕と、彼女で作り上げる。
もうすぐ、出来上がる。
深く深く息を吐いた後、彼女を見遣れば、とうとう最後の一つを手に取るところだった。
彼女は僕と視線を合わせ、何処か興奮したように頬を薄く染めて微笑む。
白くて、線の細い彼女の手が、それよりも尚白い空白の上を滑った。
パチ、ン。
そうして、この空間は。
すきとおる色に染まった、この四角い空間は。
床にはめ込まれた欠片を最後に、小さな音と共に、完成した。
彼女がきらきらと光る目で周囲を見渡すより早く、四角い空間はさあっと色を変えた。
深く、深く、身体の芯まで沁みこむ様なそれから、目蓋をすり抜けてふわあと浮かぶようなそれのグラデーション。床はもう殆ど黒に近いもので染まっている。
立方体の空間の総てが、息も詰まるような海の色に、なった。
ああ、と彼女が小さな声を零す。意図して声量を絞ったのではない、掠れた、蒼い涙の滲む、かすかな声。見遣れば、やっぱり泣いていた。
近づいて、顔を覆う両手を取って、抱き締める。僕とは違うやわらかな線で作られた、別のいのちの詰まった身体が、さざなみをはらんだように震えていた。
ぱた、とかすかな音が聞こえてきたので目を向ければ、それは彼女の指先から滴る透明な雫が、床の上で弾ける音だった。
立方体の中に。四角い空間の中に、ゆっくりと、ゆっくりと時が満ちる。
彼女の涙を合図にして、僕らの足元から水が湧き出した。
とぷん、とぷん、とゆるやかに揺れながら、生まれてくるのは、潮の匂い。
彼女の涙は止まらない。とめどなく伝う涙は、僕の濡れた肩口がよく知っていた。
そうして、ひどくゆっくりと空間を埋めていく潮は当然僕らの身体も飲み込んでいき、彼女の瞳から降る雨もその内にまぎれさせた。
僕らは、ただ綺麗に四角い海の中に漂う。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
駆動音すら聞こえない高性能のゴーグルを外して、彼女は泣きはらした赤い目で笑った。最高のバースデイだわ、と声にならない声で呟く。
本当は、本物をプレゼントしたかった。僕らがいたはずの、深く、蒼い世界。今はもう帰ることの出来ない故郷を。欠片でもいいから、本物を彼女に渡したかった。
ただ、結局はイミテーションになってしまった。それが僕に出来る精一杯だった。
擬似的な海を電脳空間上に作り出すプログラム「C.S.」。僕らはおろか、人間すら踏み入ることのできなくなった海という場所の、かつての姿を創造するプログラムを、僕は作った。あの刻々と移る色や、豊かないのちを育み、歌声に溢れていたあの場所はもうない。ないから、作った。
あの場所を切望する、彼女のために。
沢山のものを、僕らはあの場所に残してきた。
沢山のものを残したまま、陸に上がってしまった。
息をするのもおぼつかなかった頃があった。
でも、今は陸でしか生きられなくなった。
悲しいことだけど。歯がゆいことだけど。
もう、戻れやしない。
笑った彼女の頬に、また、ぽろりと涙が零れ落ちる。
指先でそれを拭って、額にキスをした。宥めるつもりだったのに、余計に彼女は泣いた。堪えようとして、うう、と小さく呻いて、唇を噛み締めて、目をぎゅっと瞑る。
ぎゅう、と抱いた。
四角い海の中で抱き締めたときのように、震える身体を強く引き寄せて、強く抱いた。
Copyright (c) 2006 Ichiri Asakura All rights reserved.
-Powered by HTML DWARF-